『江戸の遊び絵』(稲垣進一/東京書籍)
どうしてこういうジャンルが「サブ・カルチャー」扱いされてしまうんですかね。私は最高峰の芸術だと思うんですがね。
2003年6月22日にジュンク堂書店池袋本店にて、みなもと太郎先生とマンガ評論家の夏目房之介さんのトークショーをコミティアの主催で行いました(ティアズマガジンVol.65ごあいさつ参照)。その連動企画として、みなもと先生自らが同店内(10階/約2000坪)を6時間かけて巡り、お薦め本を選んだ上、推薦コメントを付けて販売する「みなもと太郎の選んだ30冊」フェアを実施しました。ラインナップは歴史書はもちろん、実用書、理工書、児童文学、映画史、音楽書…と広範に及び、まさに博覧強記とはこのこと。かの傑作群がこのような幅広い好奇心から生まれたことをぜひ知ってもらいたいと思います。(コミティア実行委員会代表 中村公彦)
※誤記の修正以外の、時制その他の表記は当時のままとします。
どうしてこういうジャンルが「サブ・カルチャー」扱いされてしまうんですかね。私は最高峰の芸術だと思うんですがね。
引力の無い世界での生命進化。その多様性、可能性に心奪われます。人類が宇宙に進出して遥か未来、我々はどのような姿になっているのか…なんて考えながらページをめくってみるのも一興。
フランス人はロクな音楽をつくらない──と、ドイツ人は馬鹿にしているそうですが、現代の音楽のすべて(和楽や黒人ブルースは別)の原点がドビュッシー。ドビュッシーの音楽の原点は日本の浮世絵。日本のマンガ、アニメの原点も浮世絵…。ドビュッシーは音楽界の手塚治虫か?
若い人にはなじみが薄いかもしれませんが、志ん生以上に江戸の「粋」を伝えてくれた最後の芸人。長い間入手困難だった本書が文庫化されて、実にその…べけんやのいたり。東京に出てきた23歳のとき「新宿末広亭」で最期の高座姿を見る事ができたのは僕の幸せのひとつだ。
日本の文楽に匹敵する人形アニメ作家、イジイ・トルンカ。彼の「チェコの古代伝説」「真夏の夜の夢」どれも絶品、見るべし。「真夏…」映画館で観れた。よかった。
私は世界のジョーク集を100冊ほど集めたが、その発端となったのは田辺編のフランス・ジョークだった。編者によってジョーク集の価値も大いに変わることを氏の著書で感じた。
日本料理の最高峰を一部特権階級・グルメだけのものでなく、「家庭料理」として我々の前に並べてくれる。企画を立てた暮しの手帖社もエライがそれに応えてくれた「吉兆」の御主人もエライ!
「職人芸」「職人の語り」「職人の作品」になぜ我々はこうもゾクゾク、ワクワクさせられてしまうのだろう? 無私となってモノを創る人間はどのジャンルであれ「頂点」に立ってしまうのだ。
いわゆる「東映仁侠映画」のおびただしい駄作の中に、ときおりギラリと光る名作、傑作。それを発見したいばかりにせっせと土曜の深夜興行(オールナイト)に足を運んだ20代の青春。その傑作のほぼ全作品が「笠原和男・脚本」モノだったと気づいたのは、クヤシイことにもう仁侠路線が末期になってからだった。ところで東映はなぜあの名作「いのち札(ふだ)」をビデオ(DVD)化しないのだ!!
この著者が無名の、地元のアマチュア研究家であったために当初は見向きもされず、歴史家たちからも長い間無視されていた。二十ン年前、私がこの名著に出会えたのはほとんど奇跡といっていい。現在、田沼意次の評価が180度転換しはじめたのは「この一書」が火をつけたからである。
明るい、幸福な、陽だまりのような児童文学、童話文学はそう多くありはしない。昭和の戦争がなければ日本もファージョンのような作家が沢山生まれていたかもしれないのに。
小学校に上がる前、この中からいくつかを読み聞かせてくれた亡き父に今も感謝している。
「芸術はそれのみでは存在し得ない。それを発見し、認める人間の内部にのみ存在するのだ」とは有名な言葉だ。──利休がワビ、サビを発見する以前、それは薄汚く誰もふり返らない無価値なものでしかなかった。一コの芸術が誕生する瞬間を我々はこの書で生々しく体験することが出来る!! ──「だってこれギャグだぜ」と言う人は、ワビサビの中に息づくギャグ、ユーモアもまた、理解できない人なのだ。
お子様のために推薦したんじゃないッ!! 自分で切って組み立て、あそぶために選んだのだ!!
織田正吉氏は世界中のユーモアとギャグを掌中に収め、人々の前に展開できる希有な天才である。こういう人がさりげなく暮らしているのが大阪という土地なのだ。
某文豪が喝破した「歌舞伎は白痴が観るものとしか思えない」──という評価はたしかに正しい。ここまでクダラナイストーリーがあってもいいものか(たとえば「郭文章(くるわぶんしょう)」)と言わざるを得ない作品がゴロゴロしていると思えば、たとえばこの「籠釣瓶(かごつるべ)」のようにシェークスピアが束になってもかなわないような、恐ろしい、深い、哲学的な作品もまたいくらでもあるのだ。その百花繚乱のカオスこそが歌舞伎の魅力なのだろう。
この表題作にはじまる15冊(?)のサイエンス・エッセイ集が私の座右の書だ。21世紀に入り、たしかに時代遅れとなった記述も多いが、その分、時代を越えた不変なる「科学的なものの考え方」が深く学べる。彼の思想と対極にある「疑似科学」の卑劣さも我々はもっと認識せねばならない。
日本漫画の始祖が北斎なら、西欧漫画の始祖がゴヤ。日本に限らず現代の政治漫画、風刺漫画がいかに「哲学不在」か、ゴヤを知ればわかる。
クロサワの評価はまだまだ低い、とボクは思っています。世界の映画表現ジャンルのほとんどを塗り変えた男と言うべきでしょう。
マンガ家からスタートした武井武雄が、「童画」というジャンルを確立し、「世界で最も美しい本」を次々と(!)制作。この世に残していってくれました。
マンガ界に身を置く一人の人間として、この源泉を無視することは出来ない。これは古典ではない、マンガのあらゆる可能性をまだまだ示唆し続けてくれる天才の書だ。
年がら年中、宇宙人や怪獣に攻めこまれていると宇宙の想像を絶する大きさが把握できなくなっちゃうんだよね。それを視覚でわからせてくれる、革命的な入門書がこれ。
マンガ家として、最も尊敬できる映画作家がビリー・ワイルダーだ。有形無形、彼の映画から学んだものははかり知れない。
どんなものでもどんな作品でも、そこに至るまで、完成するまで、出現するまでの歴史がある。それを知ることは楽しい。
映画の歴史は浅い。その草創期の語り部が生きた言語で語ってくれる。手塚治虫をスタートラインに置くなら、マンガの歴史はさらに浅い。私も語り部の自覚を持たねば。
フランス映画の巨匠ジュリアン・デュビビエがこの映画化を望んで果たせず、やむなくつくったまがいもの「我が青春のマリアンヌ」がフランス映画史上に輝く作品となっている、といういわくつきの作品。この表題は1967年、アルビコッコ父子によってついに映画化された時のタイトルで、原題は「モーヌの大将」。大将といっても軍人ではなくガキ大将の意味。「ル・グラン」のうまい邦訳が無いのが残念。この映画をぼくはいつもベスト・ワンに推している。
雑誌『暮らしの手帖』に連載されたこのフォト・エッセイは日本のエッセイ史上屈指の名作だろう。中学生時代に読むことが出来て本当によかった。私の人間形成のどれほど豊かな栄養になったことか。
音楽には吉田秀和、映画には淀川長治、そして絵画には高階秀爾がそれぞれ最高のナビゲーターだ。ファン・アイクから現代絵画までの絵画史は、決して行きあたりばったりの思いつきでなく、幾層もの歴史的背景と必然性があったことを得心させられた。表題どおり「名画を見る眼」を持つことが出来るのだ。
絵画でありながら劇画、映画、パノラマ、大叙事詩文学、人生、宇宙、生命賛歌、大自然。──絵巻物という表現形式は千年以上の歴史がありながらまだまだ未開拓のジャンルなのだ。日本人も全世界の人もその事を知らなさすぎるのではないか。──俺だけ?
30数年前、日本の「能」の研究に打ち込んでいる青い目の青年に出合いました。彼は「日本にしか無いと思っていた能の精神が、バスター・キートンの映画に全部ありました」と語ってくれました。私も同感。